拒食症が引き起こしたとみられる心不全によって、彼女が亡くなったのは1983年の2月4日。
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TBS RADIO|爆笑問題の日曜サンデー
一人目の証言
TBSアナウンサー・宮内鎮雄さんによると、カレンと会食した時の事はほとんど思い出せないとのこと。唯一印象に残っているのは、白いマニキュアをしていた事ぐらいだったそうです。
二人目の証言
カーペンターズのライナーノーツのほとんどを書いているという、カーペンターズ研究家、小倉悠加さんの話は、カーペンターズの人気に、日米で差があったというもの。
日本ではカーペンターズの人気はすごかったのですが、アメリカでは、良い評価ばかりではなくマイナスの評価もあったらしいです。
スーパースターの歌詞の、
Loneliness is a such a sad affair
And I can hardly wait to be with you again
wait to beという詩は、元々はsleepだったそうです。
「もう一度あなたと一緒に眠りたい」というのが、表現上まずい(?)という事で変えられたのが、
「お綺麗な歌詞だこと」と、当時のロック支持派から批判されたらしい。
三人目の証言
音楽評論家・湯川れい子さんによると、カレンはあれほど売れていたのにもかかわらず、スター気取りが全くなかったという事。
メディアからの取材でも話をするのは兄のリチャードばかりで、カレンはほとんど喋らなかったそうです。気取らない、飾らない性格で純粋だった分、他人のちょっとした一言で傷つきやすかったのではないか。
拒食症になったのも、兄の「ちょっと太っている」という言葉が引き金になったのではないか、という事でした。
四人目の証言
元キングレコードで、カーペンターズの楽曲の邦題のほとんどを考えたという寒梅賢さんの話です。
カーペンターズの日本初来日の公演は、第1回東京国際歌謡音楽祭。
その当時、カーペンターズは日本では全く無名でした。来日した時のメンバーは、カレンとリチャード、それにバンダメンバー4人と、マネージャーのたった7人。出迎えた日本側も、寒梅さんを含めてわずか3人。もちろんファンの出迎えもありませんでした。
1970年の11月20日、カーペンターズの日本初公演は、音楽祭が一通り終わった後でした。
音楽祭の進行の遅れのため、当初の予定よりも1時間半も遅れて始まったコンサート。
ところが深夜近くの時刻になっていたため、帰りの電車に間に合うよう、観客のほとんどが帰り始めたんだそうです。
日本武道館の1万2千人の観客のうち、7千〜8千人の客がステージに背を向けて出口に向かって歩いている。
そんな状況の中で、カレンは歌い始めたんだそうです。
想像してみてください。自分が一生懸命歌っているのに、お客さんがゾロゾロ背を向けて帰っていく光景を。
カーペンターズの日本で初めてのコンサートは、そんな悲惨なコンサートだったそうです。
ステージ脇で見ていた寒梅さんによると、リチャードは涙目になっていたらしい。
リチャードの涙の訳は、「日本なんか、もう二度と来るもんか!」という思いと、「ちくしょう、今に見ていろ、今度来る時はお客が帰らないくらい、ビッグになってやる」という思いがあったのでは、という事でした。
何気なくラジオを聞いていたのですが、だんだん聞き入ってしまいました。
カレンが亡くなって、27年。
太田さんが言っていた「カレンよりうまい歌手はいない。」
彼女の歌声を聞いていると、本当にそうだなと思います。
セリーヌ・ディオンとかホイットニー・ヒューストンなどなど、うまい歌手はたくさんいます。
でもカレン・カーペンターほど英語の歌詞が聞き取りやすく、心に染み入る歌手はいないんではないでしょうか。
Superstar 1971
タグ:カーペンターズ
通りすがりのカーペンターズファンです。
そんなエピソードがあったんですか!?
お二人には悪いことしましたね・・・。
自分が歌ってるのに帰られたら傷つきますね・・・。
なんかカレンが亡くなっているから余計にか、悲しくなってしまいます。
コメントをありがとうございます。
そうですね。
最初のコンサートがそんなだったら、
本当につらすぎますが、
彼らはそれを乗り越えていったんだと思います。
この記事、相当古いのですが、^^;
また彼女の歌を聞きたくなりました。
彼女のことを思い出させてくれて、
ありがとうございます。